(100) 開港150年の歴史を語る 横浜港かいわいの樹々 1854年、武蔵国久良岐郡横浜村に上陸したペリー提督は幕府と日米和親条約を結び、日本の鎖国政策に終止符が打たれました。その後の日米修好通商条約(1858年)にもとずき1859年に横浜港が開港され、日本近代化の激動の時代が始まりました。 150年前、小さな漁村であった横浜村が人口300万人余の大都会に代わる過程で、様々な出来事があり、多くの外国の文物が横浜港を通じてもたらされましたが、横浜港界隈には開港150年の歴史を語る興味深い樹木が沢山育っています。ここではそのいくつかを紹介します。 |
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(100-1) 日米和親条約を語り伝える玉楠 徳川幕府の鎖国政策が終わり、現代日本の出発点となった日米和親条約を語り伝える樹木が横浜にあります。
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(100-2) 日本で最も早く移入されたヒマラヤスギ 開港された横浜港界隈に外国人居留地が設けられましたが、そのなかには日本初となる洋風公園「山手公園」も開設されました。居留地に住んでいたイギリス人ブルックは明治12年(1878年)にヒマラヤスギの種をインドから輸入し、自ら苗を育て、山手公園一帯に沢山のヒマラヤスギを植えました。これらは日本にもたらされた最初のヒマラヤスギであり、140年の年月を経た今みごとな大木に成長し、幹周3m以上の巨木の域に達したものも見られます。ブルックが植えたヒマリャスギは大きくなりすぎたというので、一部は切り倒されてしまったのですが、山手公園には今でも多数のヒマラヤスギが残り、下写真のように鬱蒼と茂っています。 |
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なお余談になりますが、このテニス場には明治時代の当初、女性中心のテニスクラブが作られ、男性は女性会員の投票で承認されれば名誉会員が認められていたとのこと。どこかのゴルフクラブとはだいぶ様子が異なっていたようです。 樹木の所在:横浜市中区山手町230 山手公園 写真撮影:2017年5月 |
(100-3) 稀有壮大な日本大通のイチョウ並木 1866年に外国人居留地で大火があり、その後の大規模な区画整理において、横浜公園と港を結ぶ街路が建設されました。この街路はイギリス人建築家ブラントンの設計で作られた日本で最初の西洋式街路で、幅36mにもなる当時の常識を超える街路でした。 自動車もない時代であり、江戸時代の主要街道の幅が5~10mであった当時においては、人々を驚かせるに十分な街路で、しかもその名前が「日本大通」と名付けられたことは、当時の関係者の意気込みが感じられる稀有壮大な街路です。 |
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日本大通に現存するイチョウ並木は関東大震災(1923年)後の復興事業で整備されたものですが、100年近い年月が経過してイチョウの木も堂々たる大木に育っています。日本大通はその当初の壮大な構想により十分な道路幅があるため、イチョウの木は伸び伸びと枝を伸ばし雄大かつ優美なイチョウ並木になって、開港当時の文明開化の華やかな雰囲気を今に伝えています。 樹木の所在所:横浜市中区日本大通 写真撮影:2016年11月 |
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(100-4) 洋菓子店の庭に立つエノキの大木 横浜の外国人居留地は日本における洋菓子普及の原点でもありました。洋菓子の香りと味は人々が文明開化を感じる一番親しみやすい存在だったでしょう。不二家など多くの洋菓子企業がこの地から巣立っていきました。 |
樹木写真の属性 | |
樹 種 | タブノキ(椨の木) [クスノキ科ニッケイ属] ヒマラヤスギ(ー) [マツ科ヒマラヤスギ属] イチョウ(銀杏) [イチョウ科イチョウ属] エノキ(榎) [アサ科エノキ属] (「樹木の見所」のページにリンクしています) |
樹木の所在地 | 本文に記載 |
撮影年月 | 本文に記載 |
投稿者 | 中村 靖 |
投稿者住所 | 横浜市都筑区中川中央 |
その他 |