(135) 400年の曲折を語る
萩城址の樹木

天空の城とか木造の天守閣再建とか、城に関する話題には事欠かない昨今ですが、城と言えば萩城も興味深い城です。そこには天空の城を生み出す雲海も、往時をしのぶ豪壮な天守閣も無いかもしれませんが、生い茂る樹木がきっと何かを語りかけてくれるでしょう。

    

 (135-1) 参道わきに立つ松巨木

 関ヶ原の戦いで敗れた毛利氏は中国地方112万石から周防・長門2国の30万石に減封され、広島城にかわる居城として萩の地に萩城を作りました。慶長13年(1608年)に完成し、260年余りにわたって長州藩の中枢機関として存在し、明治6年(1873年)の廃城令により解体撤去されました。その後城跡内には歴代の藩主を祭る神社が作られ、現在城跡に見られる主要な建物はこの神社のみです。

 堀を渡り、かつて城門があったと思われる石垣をくぐって城跡内に入ると、想像していたよりはるかに広い空間が広がり、左写真のような神社に通じるまっすぐな参道が見えてきます。 参道の両脇に門柱のように立つ松巨木は、かなりの樹齢が感じられ、ここにあた城の威容を想像させるに十分です。

  

  (135-2) 強く繋がった連理松

参道わきに面白い形をした赤松がありました。二本の松が幹で合着し、枝も何か所かで融合し繋がっています。このような松は連理松と呼ばれます。萩城址内の多数の樹木を見て回りましたが、樹木の説明掲示板が付いているのはこの連理松のみでした。掲示板には、「連理松は男女や夫婦の愛情がきわめて深く、仲睦まじいことの象徴」と、通り一片のことしか書かれていませんでした。
 
しかし、ここは萩城址です。関ヶ原の戦いに敗れ、萩に減封されて雌伏260年、その間の藩主と家臣の強い絆。あるいは明治維新を成し遂げた萩藩士の強い絆、などもこの連理松は語っているように思われました。

     

  (135-3) 萩城址のハギ(萩)
予想していたことですが、多数のハギが城内のそこかしこに植えられていました。正確に数えたわけではないのですが、100株近い数があったのではないでしょうか。訪ねたとき花はピークを過ぎていましたが、まだ残っていた花を見ると紫ハギと白ハギがあり、東のエリアに白ハギが、西のエリアに紫ハギが植えられていました。
 
萩城が建つ萩の地名は、近くの山にハギ(萩)がたくさん生い茂っていたためと言われていますから、萩城と樹木のハギ(萩)とは深いつながりがあり、この地はハギがよく育つ地です。
ハギは草と間違われるほどの低木で目立ちませんが、万葉集においてハギは最も多くの歌に詠み込まれている樹木であるように、強い生命力を秘めた樹木です。萩城の秘めた力を語るにふさわしい樹木と言えるでしょう。

  

 (135-4) 原生林化した指月山

 萩城は城内に指月山(しづきやま)と呼ばれる小高い山を取り込んでいました。この山の山頂には詰丸とよばれた山城が築かれ、いざとなった時の最後の備えとなっていました。そのようなこともあり萩城は指月城とも呼ばれていました。
 その山に登ってみようと登り口のところに行ってみましたが、そこは落ち葉や枯れ枝がうず高く積もり、木々が鬱蒼と茂り、昼なお暗い登山道を登るのはためらわれました。
 山に登るのはあきらめ、天守閣跡から指月山を望んだ姿が左写真です。モクモクとブロッコリーのように見えるのはシイノキやカシノキなどの大木でしょう。築城後400年余の年月が過ぎ、指月山も原生林化しているように見えました。

  

  (135-5) 天守閣も櫓も無い萩城址
萩城址の樹木探訪を終わり、城外に出て後ろを振り返ると、下写真のような、萩城の石垣と背後の指月山の姿が目に入ってきました。写真左端の一段と高い石垣のところが天守閣跡です。石垣の上に天守閣も櫓も無いこの姿は、萩城の波乱に満ちた400年の歴史を静かに語り伝えているように感じました。
 
明治維新の廃城令と太平洋戦争の戦災でほとんどの城の天守閣が失われましたが、少なからざる城で天守閣が再興されました。しかしここ萩城では天守閣はおろか櫓の1つも再建されていません。廃藩置県の断行、廃城令の発布など、明治維新を主導した萩藩士への誇りがあることでしょう。萩城天守閣を再建しないことに萩の人々の矜持を見る思いがしました。

  

   樹木写真の属性
 樹  種 クロマツ(松)[マツ科マツ属]
アカマツ(松)[マツ科マツ属]

ヤマハギ(萩)[マメ科ハギ属]

(「樹木の見所」のページにリンクしています)
 樹木の所在地  山口県萩市大字堀内 萩城址  
 撮影年月   2016年8月、2019年9月
 投稿者   木村 樹太郎   
 投稿者住所  島根県邑智郡川本町
 その他