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(168)柿本人麻呂の秀歌を生み出した
石見国・高角山の木々

島根県・江津市には歌聖・柿本人麻呂の歌碑が多数あると知りました。和歌と樹木はかなり異質なものですが、文化風土に深く根差した樹木ですから、和歌と樹木の接点が何かあるのではないかと訪ねました。

  

 (168-1) 高角山山麓にある人丸神社
江津市の南方に高角山(たかつのやま)と呼ばれる小高い山があり、その山麓に人丸神社があります。高角山は柿本人麻呂と深い縁のある山であり、戦後この地域に入植した人々が心のよりどころとして建立した神社です。この地域では柿本人麻呂を親しみを込めてしばしば「人丸さん」と呼ぶそうですが、神社名もそのことに由来するのでしょう
 
訪ねて見ると小じんまりした社殿はあたりに生い茂る木々に包まれ、社殿の存在も定かには見えない程木々が生い茂っていました。神社入り口脇には立派な歌碑がありました。

 

 (168-2) 柿本人麻呂の歌碑

 人丸神社前には柿本人麻呂の歌碑があり次の歌が記されています。

「石見のや、高角山の木のまより、我が振る袖を、妹見つらむか」(万葉集巻2・132番歌)

 柿本人麻呂は1300年前頃、石見の国に役人として赴任し、そこで石見の人:依羅娘子(よさみのおとめ)を妻として幸せに暮らしていました。時を経て都に帰ることになり、依羅娘子(よさみのおとめ)との別れを嘆き悲しんで詠んだ長歌(万葉集巻2・131番歌)があり、その反歌として上記の短歌があります。石見の国における人麻呂の歌を代表する秀歌とされています

 依羅娘子(よさみのおとめ)との別れを深く悲しんだ人麻呂は、思い出多い都野津の地を望んで最後の別れをしたいと高角山に登りこの歌を詠んだのでしょう。

 

 (168-3) 和歌の情景を再現する万葉銅像
江津市の万葉を愛する有志が力を合わせ、前記の和歌の情景を再現する万葉銅像が平成18年(2006年)に人丸神社前の広場に建立されました。(下写真)
 
上写真のように、人麻呂との別れの時を迎え悄然とたたずむ依羅娘子(よさみのおとめ)の像。そしてその左後方の木陰より手を振る人麻呂の像が見えるでしょうか。

  

 (168-4) 木々が生い茂る高角山

 人麻呂像の側から見ると左写真のようになります。人麻呂像の前は木が切り払われ視界が開けていますが、1300年前に人麻呂が高角山に登った時はこのようではなかったでしょう。
 
 実際に人麻呂が登った時の高角山には人の背丈よりはるかに高い木々が生い茂り、眺望は開けていなかったでしょう。高角山に登り、思い出多い日々を過ごした「妹があたり」(都野津町)を見て、最後の別れをしようと思っていた人麻呂にとって、妻と分かれた悲しみと、残してきた悔恨の情と、生い茂る木々で「妹があたり」をしかと見渡せないもどかしさがないまぜになり、上記の和歌が生まれたのでしょう。高角山の木々が万葉の秀歌を生み出した一要因であったと言えるのではないでしょうか。

 

 (168-5) 人麻呂渡し
 高角山を下ったところに石見の国第一の大河「江の川」が流れており、かつて「渡し」がありました。人麻呂は1300年前に石見の国に赴任した時、この渡しを北から南に渡り、そして数年後、京に帰るとき南から北えと渡って行ったのでしょう。その故事にちなんでこの渡し跡はいまでは「人麻呂渡し」とよばれ史跡になっています。そのあたりには鬱蒼と木が茂り、ひときわ高くそびえるタブノキ巨木がこの地の由緒の深さを物語っています。
江川の渡しを越えても、人麻呂の依羅娘子(よさみのおとめ)への思いは薄れることがありませんでした。前記和歌に続き以下の歌が万葉集に収録されています。
「ささの葉は、み山もさやに乱(さや)げども、われは妹思う、別れ来ぬらば」(万葉集巻2・133番歌)

 

   樹木写真の属性
 樹  種 クヌギ、コナラなど[ブナ科コナラ属]
 樹木の所在地 島根県江津市島の星町 高角山公園
 撮影年月  2022年5月
 投稿者  中村 靖   
 投稿者住所  横浜市都筑区
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